人口動態統計からみた日本における脳膜炎死亡について(東京都健康安全研究センター:脳膜炎,推移,世代マップ,人口動態統計,鉛中毒,鉛白,白粉,おしろい)

東京都健康安全研究センター年報,67巻,305-310 (2016)

  人口動態統計からみた日本における脳膜炎死亡について ( sage20161.pdf : 1.2MB, Acrobat形式 )


 

研究要旨

 疾病動向予測システムを用いて日本における脳膜炎による死亡の歴史的状況を分析した.
 脳膜炎による死亡は,1899年から1920年頃まで男女とも35,000人程度であったが,1923年には男子37,252名,女子36,237名とピークを示した後,急激に減少し,1943年には男子15,777名,女子14,311名と半減している.これは,平井毓太郎らが,乳幼児における脳膜炎死亡の過半が,化粧品に含まれる鉛白による鉛中毒であることを示し,その治療法を明らかにしたこと,および法が改正され,化粧品への鉛白の使用が禁止されたことによるものである.

 


 

はじめに

 1943年以前の人口動態統計に収載されている「脳膜炎」は「(脳脊)髄膜炎」と同一である.広辞苑1)で「脳膜炎」を調べると「脳脊髄膜炎のこと.」と書かれており,「脳脊髄膜炎」には,「急性の軟膜の炎症。発熱・脳脊髄液圧上昇・頭痛・嘔吐・頸部強直などが現れる。細菌・ウイルス・原虫などによる感染性のものと非感染性のものとがあり、前者のうち流行性のものは髄膜炎双球菌によって起こる。このほか、結核性のもの、化膿性のものなどがある。慢性のものは梅毒で見られる。髄膜炎。脳膜炎。」と記載されている.
 広辞苑の記載に見られるように,現在では,脳脊髄膜炎は病原体によるものが大多数を占めており,感染症法では,四類全数把握対象疾患として日本脳炎などが,五類全数把握対象疾患として急性脳炎や侵襲性髄膜炎菌感染症などが医療機関での届出を義務づけられている.
 このように現在では,病原体による脳膜炎がほとんどを占めているが,1900年代前半においては鉛中毒による脳膜炎が問題となっていた.
 堀内ら2)は,1900年代前半の鉛中毒問題に対し,多数の文献を渉猟して『「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡』として多くの報告を行っている.
 本論文では,当センターで開発している疾病動向予測システム(SAGE)を用いて分析した脳膜炎に関する人口動態統計の結果を示すとともに,法整備と死亡状況の観点からみた脳膜炎死亡について報告する.

 

研究方法

 東京都健康安全研究センターで開発している疾病動向予測システム3-8)(SAGE:Structural Array GEnerator)を用いて,脳膜炎による死亡について分析を加えた.さらに,法整備と脳膜炎死亡との関係について考察した.その際に,堀口らの研究2),国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション9)」の「官報」および「図書」を参考にした.

 

結果

 1. 人口動態統計情報

 1) 疾病分類の変遷

 わが国では,1899年から中央集査による人口動態統計が実施されている(1944年から1946年を除く).この情報を利用することにより100年以上にわたる日本人の死亡現象を解析することが可能である.しかし,人口動態統計は年により死亡分類が変更され,時にはその分類が欠落していることもある.表1に脳膜炎の疾病分類の変遷を示した.

表1. 疾病分類の歴史的変遷

年次 中分類(簡単分類) 小分類(基本分類)
1899-1906 20 脳膜炎  
1907-1908 25 脳膜炎  
1909-1922 29 脳膜炎  
1923-1932 17 脳膜炎  
1933-1936 30 脳膜炎(結核性ヲ除ク)  
1937-1943 30 脳膜炎(結核性ヲ除ク)
総数のみ
79 脳膜炎(結核性ヲ除ク)

 

 人口動態統計で脳膜炎の集計が開始されたのは1899年である.当初は,中分類で「20 脳膜炎」に分類され,現在の人口動態統計の「総数,0歳から4歳までは各歳で,5歳以降は5歳間隔で集計する」という形式とほとんど同じ年齢階級別に区分され集計が行われている.1932年まで,分類番号は変わるもののそれが続き,1933年になると「30 脳膜炎(結核性ヲ除ク)」となる.ところが,1937年には中分類では総数のみが示され,小分類の「79脳膜炎(結核性ヲ除ク)」に5歳階級の情報が移っている.このような変遷はあるものの,1899年から1943年の情報を利用することができる.

 

 2) 総数の年次推移

 1899年における脳膜炎による死亡は,男子36,811名,女子33,095名の合計69,906名で,総死亡者数932,087名の7.5%を占めていた(図1).
 年次推移をみると1899年から1920年頃まで男女とも35,000人程度であったのが,1923年には男子37,252名,女子36,237名とピークを示した後,急激に減少し,1943年には男子15,777名,女子14,311名と半減している.

図1. 脳膜炎による死亡者数の年次推移

 

 3) 死亡率の年次推移

 人口の影響を除くために10万人当たりの死亡率を図2に示した.
 10万人当たり死亡率は,1903年の男子149.7,女子141.2をピークに年を追うごとに減少し,1943年には男子42.3,女子37.6となっている.

図2. 脳膜炎による粗死亡率(対10万人)の年次推移

 

 4) 特定年における死亡者数の月別推移

 季節依存性を示す死因も存在する.そこで,死亡者数が高値を示した1915年と1923年,低値を示した1935年と1940年のそれらを男女別に図3に示した.
 いずれの年も季節変動を示し,8月にピークを示している.また,1915年・1923年と1935年・1940年とを比較すると特に8月を中心とする夏場での減少が際立っている.

図3. 脳膜炎による死亡者数の月別推移

 

 5) 世代マップ

 図4に男女別の世代マップ(図4)を示した.この図から明らかなように,圧倒的に乳幼児での死亡が多いことがわかる.

図4. 脳膜炎による死亡者の世代マップ (上段:男子,下段:女子)

 

 2. 脳膜炎の症状

 1) 1900年前後に著述された臨床症状

 1893年に発行された医学書である内科新書(儒氏)によると「第五十二項 腦髓及軟腦膜炎(一)急性症10)」に「或ハ頭痛、嘔吐ノ如キ僅微ノ前驅徴ヲ呈シ或ハ否ラスシテ本症ヲ頓發シ初メ意識ヲ失ヒ速ニ增劇シテ最深重ノ昏睡ニ陥リ其間ニ痙攣ヲ發スルヲ常トス痙攣或ハ二三ノ筋ヲ局シテ發シ或ハ全身ニ蔓延ス急劇ノ症ニ在リテハ腦壓症ヲ發シテ數時若クハ長クモ數日ヲ經テ死ニ轉歸ス」と記されている.また,1903年の内科学(鼈氏)によると「腦實質ノ疾病 第一脳充血及ヒ脳貧血,逆上(上衝),卒倒」の「小兒腦麻痺11)」に「本病ハ一名小兒急性腦炎又ハ腦灰白質ト謂ヒ.・・(中略)・・本症ハ高熱、頭痛及ビ爾他ノ全身症状ヲ以テ急劇ニ起リ往々惡心、嘔吐、痙攣ヲ伴ヒ數日ヲ經テ此等諸症症候ハ消散シ、半身不随及ヒ半身不全麻痺ヲ殘遺ス。」と記述されている.

 

 2) 仮称所謂脳膜炎の臨床症状など

 堀口ら2)によると「所謂脳膜炎」という記述が最初に表れたのは,1895年のことであり,この発表後,1901年には「治癒スベキ腦膜炎ニ就テ12)」という総説も発表されている.この総説では次のことが報告されている.
 発生時期については,「盛暑ノ候ニ本病ハ最モ多ク發生スル・・(中略)・・盛暑ノ頃七月カラ九月マデガ最モ多イ時期デアツテ」と報告されている.また,症状については「更ニ一層此症状ガ進ミマスルト瞳孔ガ稍ヤ散大シテサウシテ光線ニ應ズルコトガ痴鈍ニナツテ參ルガ聽神ノ方ハソレニ反對デ却ツテ高マリ如何ナル小イ響キニ逢マシテモ直グニ駭クト云フヤウナ狀況トナリ、サウシテ四肢ハ時々震顫ヲ起ス指ノ尖頭ガ顫ヘル・・(中略)・・精神ハ次第〱ニ嗜眠ノ狀トナル、最初無慾ノ狀ガ遂ニハ嗜眠ノ狀トナリ遂ニ一般ノ腦膜炎ノ症狀ニ陷ツテ仕舞ウ・・(中略)・・全身痙攣ヲ發スル者ナドモアリマス・・(中略)・・病勢ノ極ク激シキ塲合ニハ遂ニ漸次衰弱ニ陷リテ斃レテ仕舞ウ・・」と報告されている.

 

 3) 現在一般的に著述されている臨床症状

 現在の臨床症状についてメルクマニュアル13)で検索した.「脳炎」の症状と徴候には,「症状には,発熱,頭痛,精神状態の変化などがあり,しばしば発作および局所神経障害を伴う。こうした症状に先行して,胃腸または呼吸性の前駆症状がみられる場合がある。」と記述されている.また,「髄膜炎」の症状と徴候には,「髄膜炎の典型的な3症候は,発熱,頭痛,項部硬直で,数時間から数日かけて発症する。・・(中略)・・髄膜炎初期に典型的には脳実質の傷害はみられないが,特に細菌性髄膜炎が未治療の場合に嗜眠,錯乱,けいれん発作,局所神経障害が認められることがある。」と記されている.
 一方,メルクマニュアルの「鉛中毒」の項をみるとその症状と徴候として,「小児では,急性鉛中毒により被刺激性,注意力の低下,急性脳障害を生じる場合がある。1~5日の間に脳浮腫が進行し,持続する激しい嘔吐,失調性歩行,発作,意識障害を発現し,最終的には難治性発作および昏睡に至る。」と記述されている.症状はこのように非特異的であり,現在でも臨床症状のみでは,鉛中毒と感染症による髄膜炎との区別は難しいということがわかる.

 

 3. 平井毓太郎による鉛毒性脳症の報告

 1923年に平井毓太郎により「所謂腦膜炎の豫防及治療ニ就テ14)」が発表された.この中で「然ルニ余ハ研究ノ結果本症ノ慢性鉛中毒症ナルコトヲ確認シ得タリ」とこの脳膜炎症状が鉛中毒であることを明確に報告している.その上で,「豫防法。乳兒ニ接スル母氏、乳母又ハ養護者ハ含鉛化粧品ヲ使用ス可ラズ。若シ之ヲ使用シタルトキハ、兒ニ接スル毎ニ、必ズ注意シテ、ヨク之ヲ拭ヒ取ルヲ要ス。乳兒ニ含鉛化粧品ヲ使用ス可ベカラザルコト言フヲ俟タズ。」と予防法を報告している.さらに「治療法。既ニ發病シタル者ニ對シテハ、人乳必ズシモ害アルニ非ズ。要ハ兒ニ接スル者ノ含鉛化粧品ヲ使用セザルニ在リ。・・(中略)・・疾病ノ時期及症状ニ應ジテ夫々臨機對症療法ヲ施スノ外、堪ヘ得ルナラバ「ヨードナトリウム」又ハ「ヨードカリウム」ノ内服、其他温浴又ハ人工硫黄浴(硫化「カリウム」約三乃至五瓦ヲ先ヅ湯ニ溶解シ之ヲ一浴中ニ投ズ)等試ム可キカ。」と治療法も報告している.

 

 4. 法規の整備

 1) 有害性著色料取締規則の制定

 現在の食品衛生法(昭和22年12月24日法律第233号)の前身のひとつである有害性著色料取締規則(明治33年内務省令第17号,4月17日)は1900年に制定された.この省令は,付則3条を含む12条から構成され,明治33年4月17日の官報第5034号に掲載されている.その省令で化粧品に係わる部分は次のとおりである.

内務省令第十七號
有害性著色料取締規則左ノ通定ム
    明治三十三年四月十七日 内務大臣 侯爵西郷從道

第一條 有害性著色料ヲ分テ左ノ二種トス
 第一種 左ニ掲クル物質又ハ之ヲ含有スルモノ
  砒素、拔𠌃謨、嘉度密烏謨、格羅謨、銅、水銀、鉛、錫、安知母紐謨、烏拉紐謨、亞鉛、藤黄、必倔林酸、「ヂニトロクレゾール」、「コラルリン」
 第二種
  硫酸拔𠌃謨、硫化嘉度密烏謨、酸化格羅謨、朱、酸化錫、「ムッシーフ」金、酸化亞鉛、硫化亞鉛、銅、錫、亞鉛及其ノ合金屬ニシテ固有ノ光澤ヲ有スルモノ
(第二条から第三条 略)
第四條 第一條第一種ノ著色料ハ販賣ノ用ニ供スル化粧品、齒磨、小兒玩弄品(繪雙紙、錦繪、色紙ヲ含ム)ノ製造又ハ著色ニ使用スルコトヲ得ス但シ左ニ掲クルモノハ此ノ限ニ在ラス
(第五条から第十条 略)
   付 則
第十一條 鉛白ハ當分ノ内四條ノ規定ニ拘ハラス化粧品トシテ之ヲ使用スルコトヲ得

 なおこの条文の中で,拔𠌃謨はバリウム,嘉度密烏謨はカドミウム,格羅謨はクロム,安知母紐謨はアンチモン,烏拉紐謨はウラニウム,藤黄は草雌黄(くさしおう)という植物から採取できる顔料,必倔林酸はピクリン酸である.
 この付則の第十一條の例外規定により鉛白が使用規制されなかったことが,乳幼児の鉛中毒による脳膜炎死亡の大きな要因となった.

 

 2) 有害性著色料取締規則の改正

 有害性著色料取締規則の改正(昭和5年内務省令30号,10月22日)が1930年に実施された.この省令は,昭和5年10月22日の官報第1145号に掲載されている.これにより,1934年1月1日以後,鉛白を使用した化粧品の製造が禁止され,1934年12月31日以後は,鉛白を用いた化粧品の販売も禁止された.その省令で化粧品に係わる部分は次のとおりである.

内務省令第三十號
明治三十三年四月内務省令第十七號有害性著色料取締規則中左ノ通改正シ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
    昭和五年十月二十二日 内務大臣 安達 謙蔵

第十二條 現在鉛白ヲ使用シテ化粧品ノ製造ヲ爲ス者ハ現在製造ノ化粧品ト同一ノモノヲ製造スル場合ニ限リ第四條ノ規定ニ拘ラズ昭和八年十二月三十一日迄鉛白ヲ使用スルコトヲ得
 鉛白ヲ使用シタル化粧品ハ昭和九年十二月三十一日以後ニ於テ之ヲ販賣シ又ハ販賣ノ目的ヲ以テ陳列若ハ貯藏スルコトヲ得ズ之ニ違反スル化粧品ハ第四條ノ規定ニ違反シテ製造シタルモノト看做ス

 

 3) 有害性著色料取締規則の再改正

 東京と大阪の化粧品業界から提出された計2件の「有鉛白粉販売期間延長の請願15-16)」が,1933年(昭和8年)3月25日の第64回帝国議会で採択されたことなどを受け,有害性著色料取締規則の更なる改正(昭和9年内務省令35号,12月8日)が1934年に実施された.この省令は,昭和9年12月8日の官報第2382号に掲載されている.これにより,鉛白を用いた化粧品の販売禁止が1935年12月31日以後へと1年間延期された.その省令は次のとおりである.

内務省令第三十號
明治三十三年四月内務省令第十七號有害性著色料取締規則中左ノ通改正シ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
    昭和九年十二月八日 内務大臣 後藤 文夫

第十二條第二項中「昭和九年十二月三十一日」ヲ「昭和十年十二月三十一日」ニ改ム

 

考察

 1. 平井毓太郎による鉛毒性脳症の報告と死亡者数

 1923年における平井毓太郎の報告と軌を一にして脳膜炎による死亡がこの年をピークに減少に転じている.平井の報告により鉛白を含む化粧品の使用を中止する女性が増え,脳膜炎を発症する乳幼児が減少したと考えることができよう.また,鉛毒性脳症に関する情報が医師の間で共有され,その治療法が周知の事実になったことにより救命される幼児が多くなったであろうことも推測される.なお,この功績により平井毓太郎は「本邦乳児に於て屢々見らるる脳膜炎様病症の原因に就ての研究17)」として第22回(昭和7年5月10日)帝国学士院賞を受賞している.

 

 2. 有害性著色料取締規則の改正と死亡者数

 平井毓太郎は鉛中毒患者の脳脊髄液からの鉛の分析法についても報告18) している.分析には当時の最新機器であるポーラログラフィーが用いられ,有害性著色料取締規則の改正に大きな役割を果たした19).この規則の改正に伴い,脳膜炎による死亡者数も死亡率も順調に減少し,1930年代後半には感染症による脳膜炎死亡によるものが大半となったと考えられる.

 

 3. 夏期に死亡者数が多かった理由について

人口動態統計によると脳膜炎による死亡は夏期に多く発生していた.これに関し平井20)は「患兒ノ母親ニ白粉ヲ用ユル程度ヲ尋テアシタ所ガ、意外ノコトヲ知リマシタ、ソレハ殆ド皆ガ同ジ様ニ汗疹ニ對シ、六月末、七月初カラ小兒ノ身體ニ一日二回モ三回モ白粉ヲ撒布スルト云フノデアリマス。」と報告している.このように夏期に幼児に対する白粉の使用が増えたことにより,死亡者が増大したものと考えられる.

 

結論

 疾病動向予測システムを用いて日本における脳膜炎による死亡の歴史的状況を分析した.脳膜炎による死亡は,1899年から1920年頃まで男女とも35,000人程度であったが,1923年には男子37,252名,女子36,237名とピークを示した後,急激に減少し,1943年には男子15,777名,女子14,311名と半減している.これは平井毓太郎らが,乳幼児における脳膜炎死亡の過半が,化粧品に含まれる鉛白による鉛中毒であることを示し,その治療法を明らかにしたこと,および法が改正され,化粧品への鉛白の使用が禁止されたことによるものである.
 諸般の事情によるのであろう,1900年の有害性著色料取締規則の制定時には化粧品への鉛白の使用は禁止されなかった.その結果,化粧品中の鉛白による鉛中毒のため,多くの乳幼児が犠牲となった.これを受け,政府は同規則の改正を行い,鉛白の使用を禁止した.平井毓太郎の報告が1923年,鉛白の使用禁止が1934年,報告から使用禁止まで11年もの長い年月を要した.行政の一貫性は重要ではあるが,法改正までに10年以上を要したことは残念である.誤りがあった時には速やかにそれを正すという姿勢が行政にとって重要であると考える.

 

文献

1) 新村出編:広辞苑,第六版,2008, 岩波書店,東京.

2) 堀口俊一,寺本敬子,西尾久英ら:労働科学,84, 62-71, 2008.

3) 東京都健康安全研究センター:SAGE(疾病動向予測システム)ホームページ:http://www.tokyo-eiken.go.jp/sage/(2016年7月31日現在,なお本URLは変更または抹消の可能性がある).

4) 池田一夫,竹内正博,鈴木重任:東京衛研年報,46, 293-299, 1995.

5) 池田一夫,上村 尚:人口学研究,30, 70-73, 1998.

6) 池田一夫,伊藤弘一:東京衛研年報,51, 330-334, 2000.

7) 倉科周介,池田一夫:日医雑誌,123, 241-246, 2000.

8) 倉科周介:病気のなくなる日-レベル0の予感-,1998, 青土社,東京.

9) 国立国会図書館:国立国会図書館デジタルコレクション.http://dl.ndl.go.jp/(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

10) テオドル・フォン・ジュルゲンゼン:内科新書(儒氏)巻2,274, 1893, 谷口謙,東京.

11) ヱ・ベルツ:内科学(鼈氏) 下巻2,437, 1903, 金原医籍,東京.

12) 弘田 長:児科雑誌,27, 1-15, 1901.

13) マーク・H・ビアーズ編:メルクマニュアル第18版,2007, 日経BP社,東京.

14) 平井毓太郎:児科雑誌,281, 80-81, 1923.

15) 花王石鹸株式会社資料室:花王石鹸八十年史,22, 1971,花王石鹸,東京.

16) 国立国会図書館:帝国議会会議録検索システム.http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

17) 日本学士院:日本学士院恩賜賞受賞審査要旨.http://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/022/hirai.pdf(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

18) 平井毓太郎:倉敷中央病院年報,2, 1-12, 1928.

19) 日本学士院:日本学士院恩賜賞受賞審査要旨.http://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/046/shikata-tachi.pdf(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

20) 平井毓太郎:児科雑誌,290, 960-967, 1924.

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