人口動態統計からみた日本における産褥熱死亡について(東京都健康安全研究センター:産褥熱,産婆,推移,世代マップ,人口動態統計,日本,助産師)

東京都健康安全研究センター年報,67巻,311-317 (2016)

  人口動態統計からみた日本における産褥熱死亡について ( sage20162.pdf : 1.2MB, Acrobat形式 )


 

研究要旨

 疾病動向予測システムを用いて日本における産褥熱による死亡の歴史的状況を分析した.
 情報が得られる最初の年次である1899年の産褥熱による死亡者数は,女子1,767名であったが,徐々に増加して,1914年には2,762名とピークを示し,1924年以降は順調に減少し1943年には643名となった.さらに1947年以降も減少を続け2014年には6名となっている.1943年以前のこの減少は,産婆教育の一環として実施された消毒法教育の成果と考えられる.このように成果が挙がることが確実な施策を着実かつ愚直に実施していくことが行政に課せられた使命の一つである.抗生物質の無かった時代に,産褥熱による死亡を1/4までに減らすことができたことは,賞賛されるべき成果である.

 


 

はじめに

 現在では病院での出産が当たり前となっているが,産科医不足のため,出産を受け入れる病院を探すのが難しくなっている.今から70年近く前の1950年頃ではこの状況が大きく異なっていた.病院での出産はまれで,自宅で出産するのがふつうであった.出産の介助者も医師であることはまれで,ほとんどが助産師であった.1950年でも,自宅での助産師による出産が普通であったのであるから,それ以前の状況は推して知るべしである.
 明治時代には産褥熱による死亡が多くみられた.多いときには年間2,700人ほどの女性がこの感染症で命を失っていた.子どもの誕生という人生最良の時に命を失うという悲劇が繰り返されていたのである.ところがこの状況が1920年代後半から改善し,1943年には死亡者が643名へと大きく減少している.
 本論文では,当センターで開発している疾病動向予測システム(SAGE)を用いて分析した人口動態統計の情報を示すとともに,この産褥熱の減少をもたらした法整備と我が国の産婆制度が果たした役割について報告する.

 

研究方法

 東京都健康安全研究センターで開発している疾病動向予測システム1-6)(SAGE:Structural Array GEnerator)を用いて,産褥熱による死亡について分析を加えた.その上で,法整備および産婆制度が産褥熱死亡に及ぼした影響について考察した.その際に,国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション7)」の「官報」と「図書」及び国立公文書館の「デジタルアーカイブ8)」を参考にした.

 

結果

 1. 人口動態統計

 1) 疾病分類の変遷

 わが国では,1899年から中央集査による人口動態統計が実施されている(1944年から1946年を除く).この情報を利用することにより100年以上にわたる日本人の死亡現象を解析することが可能である.しかし,人口動態統計は年により死亡分類が変更され,時にはその分類が欠落していることもある.表1に産褥熱の疾病分類の変遷を示した.
 人口動態統計で産褥熱の集計が開始されたのは1899年である.当初は,中分類に分類され現在の人口動態統計の「総数,0歳から4歳までは各歳で,5歳以降は5歳間隔で集計する」という形式とほとんど同じ年齢階級別に区分され集計が行われている.それが1936年まで続く.1937年になると中分類では総計のみが示され,5歳階級の情報は小分類に移る.1947年から1949年までは,簡単分類と基本分類の両方に掲載されている.1950年になると簡単分類では「B40e 分娩中及び産褥の感染」,基本分類では「680 その他の敗血症を伴わない産褥泌尿器感染」・「681 分娩中及び産褥の敗血症」・「682 産褥静脈炎及び血栓症」・「683 産褥時の原因不明の発熱」・「684 産褥肺塞栓症」の5つの合計値となるということが第3分冊の附表2に記述されている.
 この1950年の基本分類項目に相当する項目を検索し作成したのが表1の1968年以降のコードである.
 このコードのうち,「684 産褥肺塞栓症」に掲載されている死亡者数は他のコードに比して少し奇妙な挙動を示している.他のコードで示される死亡者数は,多少の変動はあるものの概ね単調に減少している.ところが,「684 産褥肺塞栓症」だけは,1967年までは一桁で推移していたが,1968年には13名と二桁となる.これは,国際疾病分類コードのICD7からICD8への変更によるものと考えられるが,詳細は不明である.さらに,1995年のICD9からICD10への変更では大きな変動は見られないが,2005年12名,2006年12名であったものが2007年では0名となり,2008年7名,2009年9名となっている.この2007年の死亡者数0名は,他の年の情報からみて奇妙である.

表1. 疾病分類の歴史的変遷

年次 中分類(簡単分類) 小分類(基本分類)
 1899-1906  36 産褥熱  
 1907-1908  43 産褥熱  
 1909-1922  51 産褥熱  
 1923-1932  31 産褥熱  
 1933-1936  68 産褥熱  
 1937-1943  68 産褥熱(流産ニヨルモノヲ除ク)
   総数のみ
 145 産褥熱(流産ニヨルモノヲ除ク)
 1943-1946 情報無し 情報無し
 1944-1946 情報無し 情報無し
 1947-1949  再掲147 分娩中及び産褥の感染  147 分娩中及び産褥の感染
 1950  B40e 分娩中及び産褥の感染  680 その他の敗血症を伴わない産褥泌尿器感染
 681 分娩中及び産褥の敗血症
 682 産褥静脈炎及び血栓症
 683 産褥時の原因不明の発熱
 684 産褥肺塞栓症
 1951-1967 情報無し  680 その他の敗血症を伴わない産褥泌尿器感染
 681 分娩中及び産褥の敗血症
 682 産褥静脈炎及び血栓症
 683 産褥時の原因不明の発熱
 684 産褥肺塞栓症
 1968-1978 情報無し  670 分娩および産褥の敗血症
 671 産褥静脈炎および血栓症
 672 産褥時の原因不明の発熱
 673 産褥性肺塞栓症
 1979-1994 情報無し  670 産じょく大感染
 671 妊娠及び産じょくにおける静脈合併症
 672 産じょくにおける原因不明の発熱
 673 産科的肺塞栓
 1995- 情報無し  O85 産じょく性敗血症
 O86 その他の産じょく性感染症
 O87 産じょくにおける静脈合併症
 O88 産科的塞栓症

 

 2) 総数の年次推移

 1899年の産褥熱による死亡者数は1,767名であった.それが徐々に増加して,1908年に2,570名と2,500名の大台を超え,1914年には2,762名とピークを示した後,しばらく2,500名程度を維持する.1924年に2,525名を示した後,順調に減少し1943年には643名となった(図1).1947年以降も減少を続け1955年に95名と二桁となり,多少の増減はあるもののさらに減少し,2004年には初めて9名と一桁になり,2014年に6名となっている.

図1. 産褥熱による死亡者数の年次推移

 

 3) 出生10万人当たりの死亡率の年次推移

 出生数が増加すれば,産褥熱による死亡も増加する可能性がある.そこで,出生数の増減による影響を除くために,出生10万人当たりの死亡率を図2に示した.死亡率は1899年の127.3 から1908年の153.6まで増加した後,それをピークにして減少傾向を示している.

図2. 産褥熱による死亡率の年次推移(対出生10万人)

 

 4) 世代マップ

 図3に産褥熱による死亡の世代マップを示した.出産にかかわる疾病であるため,当然のことながら20代から30代にかけての死亡が多くなっている.

図3. 産褥熱による死亡者の世代マップ

 

 5) 1950年における出産の状況

 1950年の人口動態統計には「第5表 都道府県別,市区町村別,各市別,施設の内外別,立会者別出生数(発生地による)」が掲載されている.これによると,出生数2,337,507名のうち,病院で生まれたのが68,638名(2.9%),診療所では25,770名(1.1%),助産所で12,418名(0.5%),自宅・その他が2,230,681名(95.4%)となっている.また,出生介助者別にみてみると,医師によるものが121,610名(5.2%),助産師によるものが2,106,587名(90.1%),その他が109,310名(4.7%)となっている.

 

 2. 法整備と産婆数の推移

 1) 「產婆」の初出

 「產婆」という用語が初めて使われたのは「產婆ニシテ売薬又ハ堕胎ノ取扱ヲ爲スヲ厳禁ス9)」という明治元年12月24日の太政官布告第1138号である.ここには,「近來產婆之者共賣藥之世話又ハ堕胎之取扱等致シ候者有之由相聞ヘ以之外之事ニ候元來產婆ハ人之性命ニモ相拘不容易職業ニ付假令衆人之頼ヲ受無餘儀次第有之候共決メ右等之取扱致間敷筈ニ候以來萬一右様之所業於有之ハ御取糺之上屹度御咎可有之候間爲心得兼テ相達候事」と記載されている.

 

 2) 医制

 醫制8,10)」が1874年(明治7年)8月18日,文部省より,東京,京都,大阪の三府ヘ「達」という形で発布された.その第50条から第52条が産婆に関するものである.この3条は次のとおりである.

第五十條 産婆ハ四十歳以上ニシテ婦人小児ノ解剖生理及ヒ病理ノ大意ニ通シ所就ノ産科醫ヨリ出ス處ノ實驗證書(産科醫ノ眼前ニテ平産十人難産二人ヲ取扱ヒタルモノ)ヲ所持スル者ヲ檢シ免状ヲ與フ
(當分)従来營業ノ産婆ハ其ノ履歴ヲ質シテ假免状ヲ授ク但シ産婆ノ謝料モ第四十一條ニ同シ
(醫制發行後凡ソ十年ノ間)ニ産婆營業ヲ請フモノハ産科醫(或ハ内外科醫)ヨリ出ス處ノ實驗證書(本條ニ同シ)ヲ檢シテ免状ヲ授ク若シ一小地方ニ於テ産婆ノ業ヲ營ムモノナキ時ハ實驗證書ヲ所持セサルモノト雖モ醫務取締ノ見計ヲ持テ假免状ヲ授クルコトアルヘシ

第五十一條 産婆ハ産科醫或ハ内外科醫ノ差圖ヲ受ルニ非サレハ妄ニ手ヲ下スヘカラス然レトモ事實急迫ニシテ醫ヲ請ウノ暇ナキ時ハ躬ラ之ヲ行フコトアルヘシ但シ産科器械ヲ用ユルヲ禁ス且ツ此時第四十九條ノ規則ニ従ヒ其産婆ヨリ醫務取締ニ届クヘシ

第五十二條 産婆ハ方藥ヲ與フルヲ許サス

 

 3) 医制に関連する東京府の布達

 「醫制」が発せられたもののこの達はそのままでは実施されず,現実には各府県の布達にゆだねられた.東京府では,次のような布達が1876年(明治9年)に発せられている.

甲第九拾四號 產婆教授所設置ノ件、九月十四日11)
產婆之儀是迄學課教授方幷ニ技術試驗之方法等モ無之候處今般東京府病院内エ産婆教授所ヲ設ケ技術教授幷ニ試驗之上假免狀致下付候間此旨布達候事
但入學手續幷ニ試驗方法等ハ追テ詳細可相達事

甲第百三拾八號 病院ヘ產婆入學ノ件、十一月廿九日12)
當府病院產婆教授所於テ貳拾歳以上三拾歳以下ノ婦人ニシテ一ト通リ眞片假名ノ文ヲ讀得ルモノ三十名ヲ限リ入學差許候條產婆營業志願ノモノハ來明治十年二月十五日限リ住所姓名旅籍ヲ詳細ニ認メ愛宕下本府病院エ願書可差出此旨布達候事
但教授科目之義ハ病院エ出頭可承尤教授料ハ差出ニ不及候事

甲第百三拾九號 產婆試驗ノ件、十一月二十九日13)
從來營業之產婆本府病院於テ技術教授及ヒ試驗之上順次假免狀付與スヘキ旨本年九月甲第九拾四號ヲ以布達候ニ付テハ自今新タニ産婆ノ業ヲ營ントスルモノハ其時々出願ノ上試驗ヲ受ケ候義ト可相心得此旨布達候事
但入學志願之者ハ甲第百三拾八號布達ノ通心得ヘシ

 

 4) 產婆規則

 「產婆規則」が1899年(明治32年)7月18日に勅令第345号として公布された.この勅令は,20条から構成され,明治32年7月19日の官報第4814号に掲載されている.その概要は次の通りである.
「朕樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ產婆規則ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム
   御名 御璽
    明治三十二年七月十八日
             内務大臣 侯爵西郷從道」
第一條 產婆試驗ニ合格シ年齢滿二十歳以上ノ女子ニシテ產婆名簿ニ登録ヲ受ケタル者ニ非サレハ產婆ノ業ヲ營ムコトヲ得ス
第二條 產婆試驗ハ地方長官之ヲ擧行ス
第三條 一箇年以上產婆ノ學術ヲ修業シタル者ニ非サレハ產婆試驗ヲ受クルコトヲ得ス
第四條 產婆名簿ハ地方長官之ヲ管理ス
 產婆名簿ニ登録ヲ受ケントスル者ハ產婆試驗合格證書ヲ添ヘ地方長官ニ願出ツヘシ
 產婆名簿ノ登録事項ニ異動ヲ生シタルトキハ二十日以内ニ產婆名簿ノ訂正ヲ願出ツヘシ
 產婆名簿ノ登綠事項ハ内務大臣之ヲ定ム
(以下略)

 

 5) 產婆試験規則

 「產婆規則」が公布された後に「產婆試験規則」が1899年(明治32年)9月6日に内務省令第47号として公布された.この規則は8条から構成され,明治32年9月6日の官報第4856号に掲載されている.この規則の第2条が試験科目に関するものである.「消毒」が第二条の学説第四で取り上げられているのが特筆すべき点である.
「内務省令第四十七號 產婆試驗規則左ノ通定ム
     明治三十二年九月六日     内務大臣 侯爵西郷從道」
第二條 試驗科目ハ左ノ如シ
   學 説
 第一 正規姙娠分娩及其ノ取扱法
 第二 正規產褥ノ經過及褥婦生兒ノ看護法
 第三 異常ノ姙娠分娩及其ノ取扱法
 第四 姙婦產婦褥婦生兒ノ疾病消毒ノ方法及產婆心得
   實 地
 第一 實地試驗若ハ模型試驗

 

 6) 產婆名簿登録規則

「產婆試験規則」と同時に「產婆名簿登録規則」が1899年(明治32年)9月6日に内務省令第48号として公布された.この規則は6条と別記様式から構成され,明治32年9月6日の官報第4856号に掲載されている.その第一条は次の通りである.
「内務省令第四十八號 產婆名簿登録規則左ノ通定ム
     明治三十二年九月六日     内務大臣 侯爵西郷從道」
第一條 產婆名簿ニハ左ノ事項ヲ登録スヘシ
 一 登録番號、登録年月日
 二 族籍(外國人ナルトキハ其國籍)、氏名、年齢、住所
 三 產婆試驗ニ合格シタル地方廰名、其ノ年月日(產婆規則第十八条ニ依リ登録スルモノハ其ノ旨ヲ記載ス)
 四 開業地(住所以外ノ地ニ於テ開業スルモノ又ハ出張所ヲ設クルモノハ之ヲ記載ス)
 五 業務ニ關スル犯罪、禁錮以上ノ刑ニ該ル犯罪(其ノ年月日事由)
 六 產婆業ノ禁止、停止、解除(其ノ年月日事由)
 七 名簿取消ノ年月日、事由

 

 7) 產婆規則の改正

 「産婆規則」が1910年(明治43年)5月4日に勅令第218号として改正された.この改正により,内務大臣の指定した学校・講習所を卒業した者は無試験で産婆名簿への登録を受けることができることになった.この勅令は,明治43年5月5日の官報第8058号に掲載されている.その概要は次の通りである.
「朕樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ產婆規則中改正ノ件ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム
   御名 御璽
     明治四十三年五月四日
           内閣總理大臣 侯爵桂 太郎
           内務大臣 法學博士男爵平田東助」
第一條 產婆タラントスル者ハ二十年以上ノ女子ニシテ左ノ資格ヲ有シ產婆名簿ニ登綠ヲ受クルコトヲ要ス
 一 產婆試驗ニ合格シタル者
 二 内務大臣ノ指定シタル學校又ハ講習所ヲ卒業シタル者

第四條第二項中「合格證書」ノ下ニ「又ハ卒業證書」ヲ加フ

 

 8) その後の產婆規則などの改正

 学校や講習所の指定に関しては,1912年(明治45年)6月18日に内務省令第9号「私立產婆學校產婆講習所指定規則」が定められた(明治45年6月18日官報第8698号).
 さらに,1917年(大正6年)7月25日に勅令第72号が発せられ,産婆規則が改正された(大正6年7月26日官報第1496号).これにより,外国の学校などを卒業して産婆免許を得た者で内務大臣が適当と認めた者には,無試験で免許が認められた.また,1933年(昭和8年)6月23日には勅令168号が発せられ,産婆規則がさらに改正された(昭和8年6月24日官報第1943号).これにより,朝鮮,台湾または旧関東州の産婆試験に合格した者で内務大臣が適当と認めた者には,無試験で免許が認められた.

 

 9) 産婆数の推移

 産婆規則の整備に伴い産婆として営業している者の中で産婆試験合格による産婆が増加していく.その推移は,内務省衛生局が編集発行した「衛生局年報」により把握することができる.1901年(明治34年)の第81表「産婆ノ異動其他」には1899年から1901年までの産婆数が試験合格・従来開業・限地開業の3種類に分けて掲載されている.毎年発行される「衛生局年報」で,これに相当する情報を逐次検索することにより,年ごとの産婆数の推移を資格ごとに追っていくことができる.資格別の産婆数の変化を図4に示した.なお,1914年から「指定学校」という区分が現れているが,これは1910年に改正された産婆規則の第1条2項の規定によるものである.
 図4において,「試験及第」は産婆試験合格による者,「従来開業」は1899年の産婆規則施行前に免許又は鑑札を受け産婆名簿に登録されている者,「限地開業」は地域と年限を定めて生業を許可された者である.
 図4から明らかなように,産婆規則の公布の後,産婆試験合格による産婆の数が増加し,1914年には,試験合格者が15,753名と従来開業者の14,132を超え,その後,順調に増加し1936年には52,510名となっている.1936年の「指定学校」卒業者は5,366名となり,従来開業者の2,664名の約2倍となっている.

図4. 資格別に分類した産婆数の年次推移

 

 3. 産婆試験問題集

 試験が開始されると,その試験に応じて試験問題集が作られその答案が出版されるのは世の常である.産婆試験もその例に漏れず試験問題答案集がいろいろ出版されている.ここでは,消毒に関する設問を取り上げる.

 

 1) 産婆試験問題答案集14)

 1893年に「産婆試験問題答案集」が出版されている.本書は,1887年(明治20年)以来の「内務省産婆試験問題」及び「東京産婆学校試験問題」等を基礎とし,編者が実地上必要と認めた問題を選んで答案を示したものである.
 本書の65ページと65ページの2つの問いと答をみると次のようになっており,消毒のためにフェノール(石炭酸)やヨードホルム(沃度仿兒謨)の使用が推奨されている.特に,65ページの問「產褥熱ヲ豫防スルハ產婆ノ要務タリ故ニ之ヲ實施スル方法如何」では産婆業における消毒の重要性が強調されている.

問:產褥ノ病類及處置ヲ記セヨ

答:・・(中略)・・朝夕石炭酸水ヲ以テ洗滌シ沃度仿兒謨末ヲ撒布シ(以下略)

問:產褥熱ヲ豫防スルハ產婆ノ要務タリ故ニ之ヲ實施スル方法如何

答:產婆若シ產褥病者ヲ診察シタルカ又ハ其ノ生殖器ヲ洗滌シタルトキハ三十倍ノ石炭酸水ヲ以テ自己ノ手指及器械ヲ反復叮嚀ニ洗滌シ且其器械ハ一定時間二十倍ノ石炭酸水中ニ消毒シ自己ノ身體ハ沐浴シ更ニ新衣ニ更フルニアラサレハ他ノ產婦ニ近ツキ且其器械ヲ應用スベカラス是レ產褥熱豫防ノ要事ナリ

 

 2) 産婆試験問題答案全集15)

 1900年に出版された「産婆試験問題答案全集」の76ページの問(百四十九)と98ページの問(百八十四)の2つの問いと答をみると次のようになっており,ここでも消毒のためのフェノールの使用が推奨されている.ここでの問い149は1)の「産婆試験問題答案集」の問いと全く同じである.このことにより産婆試験で消毒の重要性が強調されていたことが推測される.

(百四十九)產褥熱ヲ豫防スルハ產婆ノ要務タリ故ニ之ヲ實施スル方法如何

 答:分娩中及產褥中產婆ノ手及ヒ產具器械等ノ媒介ニヨリテ有毒黴菌ノ產婦ノ體中ニ進入シテ発病スル者ナレバ内診セントスル際ニ嚴シク手指ヲ消毒スルノミナラズ產婆自身及ヒ產婦ノ陰部ヲ淸潔ニスルヲ要ス殊ニ若シ產褥患者ヲ診察シタルカ又ハ其ノ陰部ヲ洗滌シタルトキハ二十倍ノ石炭酸水ヲ以テ自己ノ手指及ヒ器械ヲ反復叮嚀ニ洗滌シ且ツ器械ハ一定時間中熱氣消毒若クハ二十倍ノ石炭酸水中ニ浸シ置キ自己ノ身體ハ沐浴シ新衣ニ改メザレハ他ノ產婦ニ近ヅキ且其ノ器械ヲ用フ可カラズ之レ產褥熱豫防ノ主要ナル事アリ

(百八十四)姙婦診察事ニ於ケル手指ノ消毒法ハ如何

 答:・・(中略)・・二十倍ノ石炭酸水ニテ刷毛ヲ以テ三分時間洗滌スヘシ(以下略)

 

 3) 産婆試験問題答案書16-17)

 「産婆試験問題答案書」は,1900年に初めて出版され,1903年に再版,1906年に第4版と版を重ね1909年には第6版が出版されている.ここでは,この答案書の初版と第6版で消毒が取り上げられている部分の比較を行う.
1900年の「第三章 正規ノ姙娠、分娩及ヒ產褥ノ部」の問(八十三)は「產褥熱ヲ豫防スルハ產婆ノ要務タリ故ニ之ヲ實施スルニハ如何ナル方法ヲ要スベキヤ」となっている.この問いは先に示した二書と同様となっており,答案も先の二書と同様のフェノールに加えヨードホルムやサリチル酸の使用も推奨している.
 さらに,「第四章 異常ノ姙娠、分娩及ヒ產褥ノ部」の問(八十)は「產褥ノ病類及ヒ處置ヲ記セヨ」,問(八十一)は「產褥熱ノ徴候ハ如何」,問(八十二)は「防腐薬ノ種類並ニ其用法ヲ記セヨ」となっており,産褥熱対策が非常に重要であることがうかがわれる.なお,問(八十二)の答案は次のように記載されている.

 防腐藥ノ種類ハ左ノ如シ
 石炭酸、撒里失爾酸、硼酸水、過滿俺酸加里液、格魯兒石灰、石炭酸阿列布油等之ナリ
 其用法前ニ記載シタル防腐藥ハ總テ防腐ノ目的ヲ以テ外陰部、膣等ヲ洗滌スルニ用フ或ハ器械手指ナドヲ消毒洗滌スルニ供ス
 石炭酸ハ五十倍ニシテ最モ能ク使用セラル
 格魯兒石灰水ハ分泌物ノ腐敗分解等ニ用フ
 硼酸水ハ二十倍乃至五十倍ニシテ洗滌藥ニ供ス
 過滿俺酸加里及ヒ撒里失爾酸モ亦タ防腐藥ニ用フ
 石炭酸阿列布油ハ最モ屢々内診等ニ使用スベシ
 (撒里失爾酸はサリチル酸,硼酸水はホウ酸水,過滿俺酸加里は過マンガン酸カリウム,格魯兒石灰はクローム石灰すなわち次亜塩素酸カルシウム,阿列布油はオリーブ油である.)
 1909年の第6版では,「第三章 正規ノ姙娠、分娩及ビ產褥ノ部」に問「(九十六)(姙婦診察事ニ於ケル手指ノ消毒法ハ如何)」,問「(百三)褥婦ノ凊潔法並ニ消毒法ヲ詳記セヨ」,問「(百九)產婆消毒ノ必要及ビ其不完全ヨリ來ル害」,問「(百十一)產婆ノ用フベキ器械及ビ藥品ヲ記セヨ」など初版に比べて消毒に関する問いがかなり増加している.

 

考察

 産褥熱が感染症であるとゼンメルワイスが推定したのが1840年代後半,リスターが石炭酸を外科手術に応用したのが1867年であった.加藤の「産婆試験問題答案集」が出版されたのが1893年,この間わずか30年足らずで,日本で産褥熱発生の抑制を目的として石炭酸を用いた消毒法に重点を置いた産婆教育が開始される.時間を要したにせよ,これにより産褥熱で死亡する産婦が1908年の2,570名から1943年には643名へと1/4にまで減少した.抗生物質が発見される以前,産褥熱に罹患すると死亡することも多かった.それが,産婆教育の一環として消毒法の教育を行い,妊娠出産時における消毒の周到な実施をとおし,産褥における死亡を大きく減少させたことは非常に大きな成果だと考えられる.
 このように成果が挙がることが確実な施策を着実かつ愚直に実施していくことが行政に課せられた使命の一つである.成果が明確でない施策を思いつきに近い形で実施することは厳に戒めるべきである.抗生物質の無かった時代に,産褥熱による死亡を1/4までに減らすことができたことは,大きな成果であり,賞賛されるべき結果を残すことができた施策の一つと考えられる.

 

結論

 疾病動向予測システムを用いて日本における産褥熱による死亡の歴史的状況を分析した.
 情報が得られる最初の年次である1899年の産褥熱による死亡者数は,女子1,767名であったが,徐々に増加して,1914年には2,762名とピークを示し,1924年以降は順調に減少し1943年には643名となった.さらに1947年以降も減少を続け2014年には6名となっている.1943年以前のこの減少は,産婆教育の一環として実施された消毒法教育の成果と考えられる.このように成果が挙がることが確実な施策を着実かつ愚直に実施していくことが行政に課せられた使命の一つである.抗生物質の無かった時代に,産褥熱による死亡を1/4までに減らすことができたことは,賞賛すべき成果である.

 

文献

1) 東京都健康安全研究センター:SAGE(疾病動向予測システム)ホームページ:http://www.tokyo-eiken.go.jp/sage/(2016年7月31日現在,なお本URLは変更または抹消の可能性がある).

2) 池田一夫,竹内正博,鈴木重任:東京衛研年報,46, 293-299, 1995.

3) 池田一夫,上村尚:人口学研究,30, 70-73, 1998.

4) 池田一夫,伊藤弘一:東京衛研年報, 51, 330-334, 2000.

5) 倉科周介,池田一夫:日医雑誌,123, 241-246, 2000.

6) 倉科周介:病気のなくなる日-レベル0の予感-,1998, 青土社,東京.

7) 国立国会図書館:国立国会図書館デジタルコレクション.http://dl.ndl.go.jp/(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

8) 国立公文書館:デジタルアーカイブホームページ.https://www.digital.archives.go.jp/(2016年7月31日現在.なお本URLは変更または抹消の可能性がある)

9) 内閣官報局:法令全書 慶応3年,421,1912.

10) 厚生省医務局:医制百年史(資料編),42,1976,ぎょうせい,東京.

11) 東京府:東京府布達全書 明治9年,184-185,1876.

12) 東京府:東京府布達全書 明治9年,217,1876.

13) 東京府:東京府布達全書 明治9年,217-218,1876.

14) 加藤米子編:産婆試験問題答案集,1893,南江堂,東京.

15) 蘆田粂子編:産婆試験問題答案全集,1900,朝陽堂,東京.

16) 関藤治郎編:産婆試験問題答案書,1900,半田屋医籍,東京.

17) 関藤治郎編:産婆試験問題答案書 第6版,1909,半田屋医籍,東京.

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